イントロダクション

ホン・サンスの女たち

秦 早穂子(映画評論家)

 映画を創る人ならば、一度は映画祭に出品したいと意気込み、ますます力が入ってくるのが大方の傾向だが、ホン・サンスの作品は、肩の力がどんどん抜け、軽やかにさえなっていく。これは稀なケースだ。そんな彼をヨーロッパでは、韓国のジャン=リュック・ゴダール、またはエリック・ロメールの弟子というらしい。


 だが、ホン・サンスは、あくまで、ホン・サンス。独自なスタイルと空気は、見る人の目をいつしか、変えさせてしまう。どの作品も同じような作りに見せながら、実は綿密で知的。ありきたりの映画に狎れてしてまった目には、ドラマティックな山場もないから、退屈になりかねない。しかし、のんべんだらりと現実を引き写しにしているわけでない。ホン・サンスによって考察され、濾過され、提出されてくる人間像は、揺れながら、変わることのない人間の本質を浮び上がらせる。ゴダールやロメールに似通っていると言うならば、厳しい基本的態度にあるのだろうか。いや、もっと自然で、より自由、そこに彼の不思議な魅力がある。

これまでの作品と違う特徴は、男中心の世界から、あくまで男の目を通してではあるが、女の心理や生理の部分に、ホン・サンスは相当、突っ込んでくる。1996年の『豚が井戸に落ちた日』から始まって2008年の『アバンチュールはパリで』に至る7本と、それ以降の、この4本『よく知りもしないくせに』、『ハハハ』、『教授とわたし、そして映画』、『次の朝は他人』。16年間の製作過程で、韓国の女たち自身も変わってきたのだろうか? 喋り言葉のイントネーションの強さ、現実的性格の裏に潜む微妙な心の動きを、時に鋭く、時には曖昧なるままに、変わる町角、変わる季節のなかで、違ったタイプの女たちを捉え、そして、そこに、置き去りにしていく。


自由で気ままであるような、男と女のそれぞれの心の様。そのどこかに、見ている自分自身もいるだろう。ホン・サンス、一層、円熟していくが、女を描くにあっては、あくまで余白の部分を残して、艶っぽい。いや、そこが、"つわもの"なのである。