―あなたが作ろうとしている映画は、あなたを含む何人かがその秘法を知っている由緒ある職業のような感じがします。その映画には、言葉があり、音楽があり、物音があるのですが、同時にそれは今日誰もが作っているような映画以上に、無声映画に似ているのです。
映画という表現手段で僕が気に入っているのは話すことなく理解されるという点だ。だって、言葉を使うなら、芝居を書くなり上演するなりしたほうがいい。映画には規則があり、それは通訳なしで理解されるということ。通訳がいて、彼がいなくなるとたちまち何も分からなくなるということは、それは映画じゃないということなんだ。眼を閉じて分かるなら、それもまた映画じゃない。規則は単純なものだ。映像と音がある。映像と音を操作しながら文を構成する術、これこそ映画に固有のものなんだ。例えば僕は自分の映画に字幕をつけるのが大嫌いなんだが、これは翻訳なしでも分かるように全力を尽くしているからだ。でもトーキーで育った観客は、登場人物が何を言っているのか分からないまま聞いている気にはならないんだな。
―あなたのグルジア時代の映画を今見ると、検閲が禁じようとした動機がよく分からないのです。
いらついたんだと思うよ、というのもまったく体制の存在を無視した映画だからね。
あれらの映画は反ソビエトではなかった。体制がなくても起こる、いつまでも起こり続けるだろう人間的問題を描いていたんだが、そうした人間的問題はたぶん検閲にとっては共産主義もいずれ移り変わっていくということを強調しているように見えたんだ。つまり、こうした無=ソビエト主義がとりわけ奴らをいらつかせたわけだ。だって、権威というものが存在する印をおくびにも出さないわけだから。
―グルジアのであれフランスのであれ、他のすべての映画と比べて、『群盗、第七章』であなたはより直接的にそうした問題を取り上げているような気がするんですが?
僕は自分の方法に忠実だったと思うけどね。喜劇の仕掛けを用いること、最高に深刻なことを微笑みをもって語ること。僕にとって『群盗、第七章』は深い意味で喜劇なんだ。ドラマティックでもあり、同時に悲劇的でもある。
―暴力的でもありますね。暴力的な場面をあなたが見せたのは初めてです。
描いている時代が暴力的で、人物が暴力的なんだ。被害者は何とも不幸な人たちなんだが、自分を強者だと思っていた人たち、権力の頂点にあった人たちもまた不幸なんだ。すべての不幸が、僕たち誰もが身に覚えのある人間の弱さと交じり合い、縦糸横糸となってこの物語を織り成しているんだ。
でもいずれにせよこの映画の中の暴力は自然主義的なものじゃない。暴力の直接的な表現は僕には耐えられない。僕にとって、暴力が愚かしさの表現として笑えるものになっていてくれれば、暴力を笑いものに出来れば、暴力を当然あるべき場所に位置づけたことになる。
―『群盗、第七章』はブラックコメディですか?
ブラックコメディには伝統がある。ミハイル・ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」で、悪魔はコミュニストの権力の仕事がちゃんとなされているか、悪がしっかりモスクワに根付いているか見に来る。ご満悦の悪魔は自分の存在はまったく無用と立ち去る。これは当時のロシア人の悪夢的な生活を描いた本だ。ブルガーコフはロシアのその他の作家の直系で、例えばゴーゴリ。彼は決して優しい、共感出来る、あるいは端的にきちんとした人物を描くことは決してなく、彼の作品には怪物や人間離れした連中に溢れかえっている。軽妙な風刺じゃない。本当の喜劇というものは常に苦しみに基づいたものなんだ。
―あなたにとって希望の光はあるのでしょうか?
僕は輝かしい未来もみんなの幸せも信じちゃいない。僕が信じるのはむしろ人間個人の運命なんだ。彼はたった一人、善と悪との間を切り抜けていかねばならない。僕らを取り巻くクズどもを笑い飛ばせるということ、これは僕たちの心の中にまだ小さな希望の光があると言うことを意味する。もし本当に僕らがペシミストだったら、そんなこと話すまでもないわけだから。
人生は予期してなかったプレゼントさ。何が起こっても人間は生きていける。生きていくことは小さなあそびなんだ。
※本稿はピエール=アンドレ・ブータンによる『蝶採り』についての談話と、ピエール=アンドレ・ブータン&マルティーヌ・マリニャックによる『群盗、第七章』についての談話から抜粋し構成したものです。
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