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『旅立ちの島唄~十五の春~』プロデューサー 政岡保宏(まさおか・やすひろ)

撮影までの道のり


2011年 初夏

休日に自宅で見ていたテレビ番組に一瞬で惹き込まれ、直感的にその番組を録画する。舞台は沖縄県南大東島、高校がないため中学卒業と同時に島を離れる宿命にあり、民謡教室に通う少女が最後に別れの島唄を歌っていた。そこには親が子を想うこと、子が親を想うことの、とてもシンプルで普遍的な愛があった。控え目で、お互いの存在を慮るが故、沈黙する家族。この家族の沈黙は、紆余曲折を経て完成した映画の土台となっている。
少女が歌った南大東島の別れの島唄「アバヨーイ」という楽曲の力と三線教室のロケーションを見て、これをオリジナル脚本による映画にしたいと思い立つ。
澤氏とは、変化球ではなく直球、誰もが観られる普遍的なドラマ、いわば古典ともいえる映画作りを目指した。映画の根幹を支えるオリジナル脚本を書くことができる監督、迷いなく、吉田康弘監督にお声掛けした。
7月初旬、吉田監督に企画内容を伝え、まずは録画DVDを見てもらう。監督からメール。「胸に染み入るものがありました。島の持っている風土というか、人間の純粋性が素晴らしい。島に残る父母に、心配かけたまま旅立ちたくない、だから泣かずに歌うんだという愚直な思いは、誰もが胸を打つのではないでしょうか。それを、黙したまま寛容している父の姿や、母のこぼれる不安が、また何とも泣かせます。もちろん、三線と唄も素晴らしい」。作品の方向性について話し合いがはじまった。


2011年10月末

シナリオ作りの為、監督、澤氏と共に那覇と南大東島へ向かう。ただの旅行者として地図を見ながら島を巡る。“沖縄の離島”イメージとかけ離れた砂浜の無い島はまさに絶海の孤島だった。ネオンの繁華街もなければ、人気もあまりない。居酒屋でも盛り上がることなく、民宿で雑魚寝する。
翌日、役場の方の紹介で島の観光を担当されている東和明さんから、島を出た子どもたちの那覇での生活、子どもと一緒に親も島を出てバラバラの生活をしている家族など多くの話を伺う。夜、テレビ番組にも出てきた新垣民謡教室へ。新垣先生が島に来た経緯、先生が育てている民謡グループ“ボロジノ娘”についてのお話を聞く。裏手にある卒業コンサートのステージを見て、映画化への気持ちが高まり、すっかりやる気になった3人は昨夜と違って、居酒屋で大いに盛り上がる。
撮影は南大東島で行うしかない、と思った。沖縄の別の離島で撮影する選択肢もあったが、リゾート・楽園のイメージから遠いこの島の不思議な魅力、そして民謡教室の存在は、唯一無二のものだった。


2011年11月

企画の段階で、主役となる15歳の少女は三吉彩花しかいないと思っていた。『告白』(中島哲也監督)、テレビ朝日系のドラマ「熱海の捜査官」で将来的に主役を続ける女優になるだろうことは証明されていた。三吉のマネジメントより、この映画をやるなら三吉自身が卒業するタイミングでないと意味がない、と伝えられる。この時期にしかできない表情、現実と役柄の年齢が一致するからこそ生まれるものがある、という意見には説得力があった。撮影を2012年GW時期に定めたのはこの理由が大きい。
父親には小林薫さん、母親には大竹しのぶさん。出演の打診をする前から、勝手におふたりを想像して、シナリオ開発をしていた。想いを秘めた“沈黙“は今回の映画のテーマ。監督はじめ、何としてもおふたりにご出演頂きたいという一途な想いで突き進んでいた。


2011年12月下旬

シナリオ初稿。セリフが加わり、映画の全体像が見えてくる。この登場人物はどのような生き方をしてきたか、どういう環境にあって、どんな思考を持っているのか。家族が離れて暮らしている環境については、監督は年表を作成し、この人物はどういう選択をし、どんな思いを持って過ごしているかなどを検証した。特に、那覇で暮らす母・明美の設定は検討を重ね、映画では描かれない、母親が那覇で過ごしてきた日々、母親がいない島の日々を想像できるようにした。撮影直前の決定稿印刷まで、取材とシナリオ打ち合わせを重ねた。


2012年1月下旬

新垣先生より紹介された八雲先生指導のもと、三吉が三線の稽古をスタートする。三吉は未経験にも関わらず音感が素晴らしく、立ったまま三線を構えて弾くことが最初から出来た。これはなかなか出来ないことらしい。「アバヨーイ」を、本人が実際に演奏して歌わなければ、映画を観た人に主人公の想いは届かない。この他にも課題曲があり、この時期から稽古をスタートしてすべて習得できるかどうかギリギリのタイミングだった。


2012年2月中旬

本作は、外から見たイメージとしての沖縄映画ではなく、内側から見た真の沖縄映画を目指していた。そのためには撮影の木村さんを中心とした東京のスタッフと沖縄県内スタッフの融合が必要だ。しかし、沖縄県でパートナーとなる会社が見つからず、スタッフィングはもちろん機材調達も難航していた。途方に暮れる中、この企画に手を差し伸べてくれたのが、沖縄映像センターの比嘉氏だ。クランクイン約2ヶ月前の出会い。沖縄で築き上げてきた実績と信頼、幅広い人脈に頼り、最終的には会社と同じビルの1Fにスタッフルームを設けて頂く。この時点でようやく撮影の道筋が見えてきた。


2012年4月初旬

メインスタッフ沖縄入り。騒音の多い那覇中心地で「島人ぬ宝」演奏シーンを撮影する為、この曲のみ事前に録音をする。リハーサルで使用曲すべてをボロジノ娘OBに演奏してもらった。三吉はこの日まで、通学、仕事をしながら約2ヶ月個人レッスンを重ね素人とは思えない技術を身に付けてきていた。ただ、幼い頃から三線と唄を毎日のように練習しつづけてきたボロジノ娘たちには高い技術と自信があり、三吉は彼女たちを前に歌うことが出来なくなってしまう。まだ習得しきれていない課題曲をいきなり練習することになった戸惑い、悔しさやプレッシャー……察したボロジノ娘OBたちが「彩花ちゃんと私たちだけにしてくれ」と言う。監督とスタッフは、外で待機していた。そして、ボロジノ娘OBと三吉は、「島人ぬ宝」を見事に演奏し、歌いきった。


南大東島の協力


わずか2週間強の滞在で、島の1年の行事を再現し、撮影する。これは島にとって多くの負担を掛けることは目に見えていた。また、撮影中はGWで、島から多くの人が出て行ってしまうという悪条件も重なっていた。役場の総務課課長・新垣さんを中心とした職員の方の陣頭指揮の元、島民の皆さんへの協力が要請され、スタッフは足繁く役場に通い、各地区長と撮影方法の具体を話し合った。準備スタッフと島の方が最も労力を使ったのが、豊年祭のパレード、神輿、船、南北親善競技会、卒業コンサート。大勢のエキストラが必須である上、準備、設営には時間がかかり、当日の撮影も慌しく一気に行われた。島の青年会はこの一連の大がかりな撮影をはじめ、期間中、フル稼動で準備に当たってくれた。島民の方には、日々の生活で育まれた一致団結の力が備わっており、結果的に我々の無理難題を受け入れ、実行頂いた。


撮影スタート


2012年4月21日

那覇にてクランクイン。連日深夜まで準備が続いた。未明、泊港で大東島行きの船「だいとう」を見ながら、三線を弾く優奈のシーンから撮影が始まる。初めて組むスタッフ同士の静かなスタート。その後、那覇のど真ん中のイベントスペースにて、ボロジノ娘たちが演奏する「島人ぬ宝」の撮影。ひーぷーさんの見事な司会役に助けられる。心配していたエキストラも人数が集まり、雨が降る直前に撮影を終える。


2012年4月26日

那覇ロケを乗り越え、スタッフ、キャスト共に南大東島入り。スタッフの宿泊先である島の施設にスタッフルーム、衣裳部屋、機材庫などを設け、撮影に備えて急ピッチで準備を行う。多くの島民の皆さんは役者として出演して頂くので、そのリハーサルや、撮影方法の確認などであっという間に二日間が過ぎ、撮影がスタートした。


2012年5月3日

港の別れのシーンの撮影。島には「だいとう」が停泊する3つの港があり、天候により当日にならないとどの港に船が来るかわからない。朝、港が決まった時点で移動を開始。停泊時間を延長してもらって撮影をする。強い日差しの中、撮影は長時間に及ぶ。エキストラ出演頂く島民、クレーン操車、船員の方の疲労も濃くなるが、船の停泊時間は限られており、スタッフは最善を尽くすしかない。


2012年5月11日

面接シーン。このシーンは、三吉が様々な想いを抱えながら、撮影を乗り越えてきた頃に行うべきという理由から、撮影の後半に設定していた。撮影は、南大東島小中学校の一室で行われた。撮影前、校舎の片隅でひとり集中する三吉の姿は忘れがたい。夜、星野洞で撮影。初めて入るスタッフも多く、想像以上の美しさに感嘆の声が上がる。


2012年5月13日

卒業コンサートの撮影。日が暮れるにつれて、多くの島民がエキストラとして集まってくる。三吉にとっては、1月から練習を重ねてきた「アバヨーイ」を披露する大舞台の撮影。三吉が落ち着かない様子を見せたのは、唯一この日だけだった。島民の方に見守られながら、三吉は三線を弾き、歌いきった。映画で使われている三線、唄声は、この日に録音されたものをそのまま使っている。


クランクアップ


2012年5月14日

前日深夜までの撮影にも関わらず、早朝から船で撮影を行う。午後には那覇へ移動する為、9時には撮影をすべて終了。怒涛の撮影がようやくゴールを迎えた。
当初から目指していた、沖縄と東京のスタッフの融合は成就した。経験の差はあれど、ただひたすら一心不乱に撮影に集中していく過程で、自然と助け合いが生まれ、これとないチームが出来上がっていた。比嘉氏との出会いに始まり、沖縄のスタッフの底抜けの朗らかさが現場を支え、真の沖縄映画と言って過言でない作品となった。スタッフのひとりひとりに感謝、感謝である。そして、何よりも、この手作り感溢れる映画を、南大東島の皆さんとの出会いによって撮影できたことに感謝。


南大東島での上映会


2012年10月末

島での大上映会。ゴザを敷きその後ろにパイプ椅子を並べた特設の会場は、ほぼ満席になった。上映後、大きな拍手が起きるが、ほとんどの方がそそくさと帰って行ってしまう。反応がよくわからなくて不安だったが、翌日、島を歩いていると「映画、良かったよ」と声を掛けてくれたりする。
このことを先述の東和明さんに伝えると、「みんなシャイだから言わないだけ。ちゃんと見ているし、気に入っているはずだから気にしないで」と慰めてくれる。さらに、「この映画はほんとにリアルだった。島で起きていること、そのもの。嘘がないから、観ているのが辛い人もたくさんいたと思うよ。自分と重ねてね」。
2日間で延べ約500人の方が映画を観てくれた。陣頭指揮を執ってご尽力いただいた役場の皆様、青年会、新垣先生、瀬良垣ファミリー、ボロジノ娘たちとその親御さん、宿泊施設、企業、商店、飲食店の皆さん、その他映画に協力してくれた大勢の島民の皆さんに感謝するとも共に、この映画が、皆様にとって「我らが南大東島の映画」と思ってもらえること、そしてこの映画が全国のひとりでも多くの方に観て頂けることを願うばかりである。


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