Bitters End
配給作品
『きらめきの季節
/美麗時光』
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作品評<きらめきの季節
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「黒暗」の向こうの『美麗時光』

暉峻創三(映画評論家)


 主要登場人物の「職業」設定だけから言えば、これは一種のチンピラものだ。アウェイ、アジェという従兄弟同士。ふたりは表の社会ではドブネズミのように底辺をさすらうのみで、何の救いも展望もない日々を過ごしている。おまけにアウェイの双子の姉は余命幾許もない。しかしそんな彼らもチンピラたちの社会に入ると、ちょっとばかし一目置かれる存在になれ、日ごろの鬱憤を晴らすことができる。こうしてふたりは、ヤクザ組織に深く関わっていく。
 しかし実際にスクリーンに映し出される『きらめきの季節/美麗時光』は、チンピラものとはまったく似ていない。過酷で絶望的なばかりに見える表社会という暗黒に、張作驥(チャン・ツォーチ)は常に一筋の別世界からの優しげな救いの光の存在を暗示することを忘れてはいないからだ。その「光」の源は、ヤクザたちの社会にあるのではない。たとえば開巻部にいきなり姿を現す、熱帯魚が泳ぐ水槽がそれだ。
 どんなに暗くて辛い現世、人生を描いていても、それらは最終的にどこか仄かな光明の射し込む祝福されるべき場所・人であるという甘美な世界認識は、一貫して社会の裏面、暗部で生きる人々を描き続けてきた張作驥の映画のなかでも、とりわけ前作『最愛の夏』あたりから強く滲み出てきはじめたように思う。『最愛の夏』の原題は「黒暗之光」だが、この「黒暗」にさえ「光」があるという逆説的な並列こそ、彼の近年来の世界観のダイレクトな表明なのだ。
 「黒暗之光」の最も「美麗」な「時光(時間)」は、最後の最後、愛する父とボーイフレンドを失って悲しみに暮れているはずのヒロインの向こうで花火が打ち上げられた瞬間にあった。その瞬間を、監督の張作驥は、花火単体で撮るのではなく、大層な苦労をしてまでヒロインの実家の窓越しに見える花火という構図で提示していた。そのことは、『きらめきの季節/美麗時光』を見た今、改めて思い出すと興味深い。華麗な幸福の光源は、画面手前の大半を占める黒暗の向こう側、窓という枠を潜り抜けたその先に存在するものとして描写されていたからだ。『きらめきの季節/美麗時光』の水槽の光やそこで泳ぐ象徴的意味を付与された熱帯魚も、窓枠越しの花火と同様、室内の暗がりの奥の、水槽という「枠」の向こう側に光り輝くものとして提示されている。

ビジュアル
ビジュアル

 水槽だけではない。『きらめきの季節/美麗時光』には、実のところ「美麗」な風景など、ほとんど出てきはしない。いたって日常的で、狭くて、薄暗くて、みすぼらしくさえあるロケーションばかりがむしろ選ばれているように思われる。にもかかわらず、その画面には不思議と、ある神々しさのようなものが、閉塞感とは対照的な外の明るさを感じさせる開放感が、そこかしこに漂っているのだ。その気配のヒントとなるのが、窓枠の向こうの花火同様に水槽という枠の向こうで光っていた水やそれを反射する魚。これらと同様の構図が、実は『きらめきの季節/美麗時光』には頻繁に採り入れられている。家の窓や扉は開け放たれ、その「枠」の向こう側にはいつも光り輝く世界が広がっている。また近所の特権的意味性を与えられた路地も、左右に立ち並ぶ家に挟まれて、現実世界とその向こうの世界を区切る枠として機能しているかのようだ(そしてそこでもしばしば画面手前は暗く、奥により輝かしい光が降り注ぐようになっている)。どんなにつまらない、ドブネズミのような生き方に甘んじている人間にも、ちょっと向こうを見ればそこには必ず、等しく美麗な光降り注ぐ世界が待っているんだよ。そう張作驥は言いたいのかもしれない。