1973年8月25日、トルコからの移民の両親のもと、ドイツ・ハンブルクに生まれる。俳優を志していたが、トルコ移民役などステレオタイプの役柄ばかりであることに嫌気がさし、ハンブルク造形芸術大学へ進学。95年、監督デビュー作となる短編「SENSIN…YOU‘RE THE ONE!」を発表し、この映画でハンブルク国際短編映画祭で観客賞を受賞。初の長編映画となった「SHORT SHARP SHOCK」(98)はマスコミ・観客ともに熱狂的に受け入れられ、ロカルノ映画祭の銅豹賞、アドルフ・グリム賞、バヴァリア映画賞など全部で9つの賞を獲得した。ユーモアあふれるロードムービー『太陽に恋して』(00)、ドキュメンタリー「WIR HABEN VERGESSSEN ZURUCKZUKEHREN」(00)、「SOLINO」(02)を発表したのち、偽装結婚から生まれる愛を情熱的に描いた『愛より強く』(06)で、第54回ベルリン国際映画祭金熊賞をはじめ、04年ヨーロッパ映画祭最優秀作品賞など数々の賞に輝き、一躍その名を世界に轟かせた。監督6作目となる『クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~』(05)では、トルコ版『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』とも言うべき音楽ドキュメンタリーに挑み、高い評価を得た。『そして、私たちは愛に帰る』(08)で第60回カンヌ国際映画祭最優秀脚本賞と全キリスト協会賞を受賞。『ソウル・キッチン』(11)では、第66回ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞を受賞し、30代にして、ベルリン、カンヌ、ヴェネチアの3大映画祭で主要賞受賞を果たす。『ソウル・キッチン』はドイツで100万人以上を動員して大ヒットとなったのを皮切りに、ヨーロッパ各国でヒットを飛ばした。ドキュメンタリー『トラブゾン狂騒曲~小さな村の大きなゴミ騒動~』(13)では、祖父母の故郷であるトルコ北東部の小さな村のごみ騒動を題材にした。
 
自らのルーツのトルコで最大のタブーと言われるアルメニア人のジェノサイドを新作のテーマにしたのはなぜですか。
私がテーマを選んだのではなく、テーマが私を選んだのです。両親がトルコ人なので興味を持ち、タブーであるという事実により興味を覚えました。どんな話題であろうとも、禁じられていると気になって、もっと知りたくなります。まだ対処されていない、折り合いがついていないことがたくさん存在するのに気づきました。もし、全国民が歴史家や政治家によって騙され、何世代にもわたり「そんなことは起こらなかった」と嘘をつかれていたら、国民はその事件を胸の内に閉じ込めるだけになります。それが、多くのトルコ人に起きていることです。数年前のイスタンブールでジェノサイドについてパブで話をすれば、隣の席の人に絡まれて「なに言ってんだよ?」なんて言われたでしょうけど、今では声を潜ませなくても話すことができるようになりました。
アルメニア系アメリカ人脚本家のマルディク・マーティン(『レイジング・ブル』、『ニューヨーク ニューヨーク』)の助けを借りましたね。映画における彼の役割は?
誰かにアメリカ的な脚本に直して欲しいと思っていました。マーティン・スコセッシが、彼と連絡を取ってくれました。彼にはダイアローグの修正だけをお願いしたのですが、「それだけでは不十分だ」と言われました。マルディクはニューヨーク大学でスコセッシと共に、アルメニア系アメリカ人のヘイグ・P・マヌギアンに師事していました。彼はたくさんのシーンを微調整、あるいは削除し、我々の予算への負担を軽くしてくれました。映画のラストもすっかり書き換えました。
スコセッシの脚本家を採用しながら、スコセッシ本人にもアドバイスを仰いだそうですね。彼はどのように関わりましたか?
彼は映画を2回観ました。アルメニア人がノースダコタに移住したという、多くのアメリカ人がまったく知らなかったアメリカの歴史を掘り下げたのを気に入ってくれました。2回目はみんなで、ニューヨークで観ました。マルディク・マーティンとスコセッシは数年ぶりに試写で再会したのです。
本作はどのような映画ですか?
二人の娘を探すために世界を旅する父親の話です。西部劇であり、父親はアメリカにたどり着くまで西へと向かいます。移民と移住についての物語です。物語の背景にはこのジェノサイドがありますが、ジェノサイドについての物語ではありません。私は政治家ではないので、映画で政治的なメッセージを発したいわけではありません。未解決の衝撃的な歴史的事件を取り上げて、物語にまとめました。『消えた声が、その名を呼ぶ』では、善と悪との境界線はつねに明解ではありません。たとえば、アルメニア人の主人公ナザレットは被害者から加害者になります。彼は、トルコ人の思いやりと慈悲のみによって生き延びるのです。
本作は『太陽に恋して』以来となる、複数の国にまたがる撮影となりました。たくさんの国でロケーション撮影するのはいかがでしたか。
これまでの映画の中で、特に物理的な点において、製作するのが一番困難な作品となりました。この映画の中心となるテーマは壮大な旅なのです。各ロケーションの独自性を捉えるのが重要だと考えていました。都市と砂漠、都市と海、海とジャングル、ジャングルと平原、それぞれの境界のことです。こういった“自然の映画”が好きなのです。観客に実際にこれらのロケーションにいるような感覚を持って欲しいと思っています。砂嵐がスクリーンを通り過ぎるとき、それがデジタルではなく本当に感じられるように。
「愛、死、悪についての三部作」の結論となる映画ですが、“悪”を見つけるのは困難でしたか?
われわれ一人一人の中に悪が存在すると確信していました。『愛より強く』で描いたように、人間には愛が可能です。『そして、私たちは愛に帰る』では死が変容の引き金となります。『消えた声が、その名を呼ぶ』は自らの歴史に向き合うことへの恐怖を扱っています。テーマが違いますし、トルコ系ドイツ人の問題ではないので、違う作品だと思われるかもしれませんが、どの映画も実はお互いに地続きの作品なのです。『愛より強く』におけるジャイトと『そして、私たちは愛に帰る』のネジャットと、今回のナザレットは似ていると思います。彼らは三兄弟のようで、周りの世界を注意深く観察し、目標に執着しています。

 
1937年、イラク生まれ。アメリカに移住し、ニューヨーク大学で映画を学ぶ。マーティン・スコセッシ作品の『ニューヨーク、ニューヨーク』(77)、『ミーン・ストリート』(80)、『レイジング・ブル』(81)のほか、『ヴァレンティノ』(78/ケン・ラッセル監督)の脚本を担当した伝説的な脚本家。現在は南カリフォルニア大学映画芸術学部で教授を務めている。本作では30年ぶりに現場復帰を果たした。
アルメニア人ジェノサイドの生存者の物語は、取扱いに注意が必要なテーマだ。 それに取り組める勇気のある人はいないと思っていた。 ファティにはその勇気があり、私の夢を叶えただけでなく、彼はもっと遠くへと行ったのだった。 そして作品を観た時に、タハール・ラヒムが到達した驚くべき境地の演技に圧倒された。 映画のすべてが完璧だった。 当時の感覚とその混乱と激変について、観客が掘り下げてくれることだけを祈っている。 アルメニア人の私にとっては、これはとてつもない冒険映画なのだ。