オタール・イオセリアーニ監督 Otar Iosseliani
──撮影前に描かれたストーリーボードには映画作家の名前が書かれていますね。例えばアベル・ガンスとか。
私の頭の中には、我が魂を導いてくれる理想のシネマテークがある。ルネ・クレールの初期作、ジャン・ヴィゴの『アタラント号』、ヴィットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇蹟』、フェデリコ・フェリーニの『そして船は行く』、ジャン・ルノワールの諸作品…。どの映画もあるひとつの方法を用いて、何千という物語を語っている。絡み合った幾千もの糸がひとつの絨毯を編むように。私の映画も人生を映し出す絵画のようであってほしいと思っている。よくジャック・タチ、特に『ぼくの伯父さん』のことを思い出す。
彼自身が演じた人物は、どこか他所から来て、彼を取り巻くものからは超然としている。この位置、これは映画作家の名に値するすべての作家が占めるべき位置なんだが、それは私たちを取り囲む狂気をより良く見、より良く表現できる位置なんだ。それに何という軽み、何というユーモア!すべてが滑稽で、同時に悲劇的なバスター・キートンの映画のようだ。『皆さま、ごきげんよう』は喜劇だが、主題があまりにもシリアスなので、シリアスに撮ることができないような類の人間喜劇なんだ。有名なディオゲネス(註:古代ギリシア犬儒学派の哲学者)のように、私は日中灯りを手に人間を探しているんだ。
──あなたの映画は、ホームレスたちが人目につくところから排除されてゆく様を描いていますね。
彼らが追い出される。これは至る所で大勢となっている不寛容の徴だ。人を追い出す、しかもホームレスだけじゃない、浮浪者も、移民も。キャンプから、住み着いた廃墟から追い出して、どんなに惨めな場所であれ彼らが見つけ出した居場所を奪うんだ。人は彼らを目にするのに耐えられない、何故なら彼らは私たちの後悔が生きて歩いているようなものだからだ。だから私は、少なくともイメージの中に、彼らの権利を確保しようと思ったんだ。
──貴族的な管理人の役にリュファスを選びましたね。
リュファスは映画の上でも、実人生でも尊敬する人物なんだ。長い事知っているが、年を取るほどに大好きになっていく。ああ、フランス映画にはいないタイプだよ。私にセレブとか、そう自称している連中を撮ることは出来ないね。私が俳優に求めるものは、その人のつつましい魅力であって、何が何でも耳目を引きつけようとする名声じゃない。私が観客と共に作り上げたいのは、称賛ではなく、共に抱ける友情なんだ。映画館を出て、こう言えるような。「楽しかったなあ、もうひとりきりじゃない、お祝いに一杯やるとしよう!」。
──『皆さま、ごきげんよう』には、見えない扉が出てきます。見えない扉を開ける術を知っている者にとって、幸福は街角にあるとも言っています。
そういうことはあるんだ。まるで牢獄のように見える壁にも、美しい異国の植物や綺麗な女の子で一杯の、まるで地上の楽園みたいな不思議な庭に通じる扉が開いている、っていうことが。でもこの楽園にも携帯電話はあって、それが鳴り始めるとその庭の魅力は消え失せる。幸福は、それに目を向ける時間がなければ、行き違ってしまう。時間ができた時にはもう遅い。すべては色あせ、荒廃してしまっている。悲しいことだが、教訓的でもある。でも、マチュー・アマルリックが演じたような人物もいる。彼は時間をかけて石やレンガを拾い集め、一緒に暮らす心優しい娼婦と共に、小さな家を作り出す。これは隠れ家というより、私たちの人生を腐らせる泥をすっかり洗い流すために必要な、撤退のための場所なんだ。それでも進まなければならない、それが私の哲学だ。
──何故このタイトルは「冬の歌 CHANTD’HIVER」(原題)なのでしょうか。
これは古いグルジアの歌のタイトルなんだ。「冬が来た。空は曇り、花はしおれる。それでも歌を歌ったっていいじゃないか」。夏に冬の歌を歌ったっていいんだ。君に歌ってあげようか…。