ダムに沈む長江・三峡の人々とジャ・ジャンクー組のキャスト・スタッフがつくりあげた奇跡。
自分のために、夫のために、精一杯の「嘘」で新たな人生を歩み出そうとする女性シェン・ホンを演じるのは、ジャ・ジャンクー監督のミューズであるチャオ・タオ。最初は朴訥すぎるように思わせながら、最後には力強く寛容に、感動的な人間性で、やはり新たな人生にこぎだそうとする炭鉱夫サンミンを演じるのは、監督の第2作『プラットホーム』でも炭鉱夫を演じたハン・サンミン。この他、シェン・ホンの夫、その友人を除いて、すべての出演者がロケ地である三峡の人々。彼らの声音、息遣い、身のこなしが、映画に瑞々しい手触りを与えている。
そして誰をも驚かせる映像美は、すべてのジャ・ジャンクーの全長編作品を手がけているユー・リクウァイの手による。撮影は小型のHDVカムで行われたが、デジタル撮影された映像として、この美しさは、映画史に残るといっても過言ではないだろう。
また、『プラットホーム』以来のジャ・ジャンクー組であるチャン・ヤンの音響も特筆に値する。たえず響く工事の音をはじめ音の存在は映画に素晴らしい生命力を与えた。
音楽は、台湾のカリスマ的ミュージシャンであるリン・チャン。コンピュータを駆使した音と大衆的な中国歌謡を組み合わせ、本作の映画世界をさらに豊かなものにしている。この映画で使われる「歌」はある意味で、寡黙な中に深い感情をたたえた主人公たちを代弁するかのように、エモーショナルに響く。
烟、酒、茶、糖。中国人に大切な4つの言葉で語られる物語は、変わりゆく時代の記憶、そして決して失われない人の記憶。
デビュー以来、その市井の人々の描写でホウ・シャオシェン(候孝賢)監督や日本の小津安二郎監督の影響が語られ、第2作『プラットホーム』では、時代を捉える眼差しのスケールでギリシャのテオ・アンゲロプロス監督にもたとえられたジャ・ジャンクー監督が、その眼差しの細やかさと大きさを、自身のオリジナリティあふれる驚くべき映画性で融合させた傑作、それが『長江哀歌』だ。
本作は中国語の原題を「三峡好人(三峡の善人)」という。これはドイツの劇作家ブレヒトが、善人こそ生きがたい資本主義の世間を寓意的に描いた<セツアンの善人>からとられた。英語題は「STILL LIFE(静物)」。ジャ・ジャンクーは、「時は、静物の上に深い痕跡を残すが、静物はただ黙って人生の秘密を湛えている」という。
この2つのタイトルに込められた思いを、映画は「烟、酒、茶、糖」という古来より中国人に欠かせない、「とても素朴な形で普通の人々に喜びと幸福をもたらす」(ジャ・ジャンクー)4つの品を題したパートで描く。本作を見終えた観客は、おそらくはまたふとした瞬間に、記憶のつまったアルバムを見返すように、ふたたびこの映画が映した普通の人々に出会いたくなるに違いない。そこにはきっと滔々と流れる大河・長江に切なく響く哀歌(エレジー)が聞こえるだろう。