映画の舞台:長江と三峡ダム
長江*1は中国を東西に横断する全長6300キロに及ぶアジア最長の河、ナイル川、アマゾン川に次ぐ世界第三の大河でもある。長江とその支流が潤す地域は1,683,500平方キロ以上に及び、流域に暮らすおよそ4億人の生活だけでなく、上海、武漢、重慶といった都市を結び、中国全土の大動脈ともなっている。
長江・三峡は、西は四川省から東は湖北省にいたる全長240キロにおよぶ峡谷の呼び名で、「三峡」とは3つの大峡谷があることに由来する。古来より山水画の題材に好んで描かれ、深く切れ込んだ両岸がかもし出す幽玄の趣は、中国独特の美を感じさせ、重慶からの「長江下り」は特に人気が高く、一大観光地ともなっている。また、三峡は黄河流域と並ぶ古代文明発祥の地であり、「三国志」の舞台でもあり、李白、杜甫、白居易ら中国の詩人も、この地で数多くの詩を残している*2。
一方で長江の中・下流域は、豪雨の際には、大洪水で人命や財産を奪う。そのため20世紀に入り、洪水を防ぎ、発電を目的とした巨大ダムの建設の構想が生まれた。
長江・三峡ダムの構想は孫文によって発案された。孫文は1919年に三峡ダムの必要性を初めて提唱。その構想に沿って当時の国民党政府は32年に最初の大規模な調査を実施した。しかしながら1947年に国共内戦がぼっ発し、国民党政府は事業を中止。だが、49年に中華人民共和国が成立すると、三峡ダム構想は、その指導者・毛沢東に引き継がれる形で再び動き始めた。
毛沢東は自ら視察に赴き、の調査、設計を推し進めたが、その間に建設反対派と賛成派による論争が巻き起こり、さらには文化大革命がおこるに及んで再び中断。文革後、またもダム構想は甦るが、建設に伴う危険や環境破壊、莫大な建設コストへの批判が噴出し、89年にはダム建設を批判する大書『長江 長江−三峡工程論争』*3が刊行された。多くの反対意見や批判にも関わらず、ついに、1994年12月14日、三峡ダムは公式に着工(93年に準備工事は開始)。2009年完成予定*4のダムは高さ180メートル、幅2,5キロ。長江の中流をせき止めるこの巨大ダムは、洪水を抑えるとともに、貯水容量・発電能力ともに世界最大となり、総貯水量は393億立方メートルで日本最大の奥只見ダムの実に約65.5倍、日本にあるダムの貯水総量のおよそ2倍。発電能力においてはエジプトのアスワンハイ・ダムの約8倍、日本の黒部第4ダムの約53倍である。それにより130万人もの住民が移住を強いられ、多くの歴史的遺跡は永遠に水没することになる。
<後注>
*1 長江の下流域の呼称が、揚子江である。
*2 唐時代の代表的詩人、李白(701〜762)が長江・三峡を下る舟旅を謳った名詩「早く白帝城を発す」は映画『長江哀歌』に引用されている。
*3 『長江 長江−三峡工程論争』は日本でも出版されている。『三峡ダム 建設の是非をめぐっての論争』(築地書館刊)
*4 * 工事は予定以上に進行し、2008年以内の完成見込みともいわれる。
|