父親役の人物がその世代ね。失望につぐ失望から酒に逃避する……。
たぶん、あの男性は、古い警句「すべては空しい」の安らかな意味を理解できるようになったんだ。たぶん、無意味なことをするくらいなら、何もしない方がましだと思っているんだ。それは必ずしも、失望した男の意見ではない。自分の中で目覚めた、何かをしたいという欲求から、彼は、自分をなだめるためのゲームを思いついた。列車、というよりも、複雑ないくつもの曲線を経て出発点へと戻ってくる複数の鉄道便 だ。
黄金の檻に閉じ込められた金持ちの浮浪者は、そこでもう一人のもっと賢い、というのも何も持っていない浮浪者と交差する。その時、二人の男性の間に友情と愛情が生まれる。彼らは、あらゆることを体験し、あらゆることを目撃し、[ラテン語の格言 (『群盗、第七章』の別題)]「葡萄酒の中に真実がある(酔うと本性が現れる)」だけを知っている……。
酒の広告の下に「あなたの健康を損ねます」と説明する偽善的な文章が小さく入ってるがね。健康を損ねるのは、酒じゃなくて、日常的な苛立ちと、同好の士と穏やかな 会話をする時間がもてないことが原因だ。要するに、「スピリット(霊、酒)」「スピリチュー(アルコール度の高い蒸留酒)」「スピリチュエル(霊的)」が同根を もつというのがすごく気に入っているんだ。二人の年老いた浮浪者が酒を飲むのは、 葡萄酒が、人々を互いに結びつける唯一の高貴なものだからなんだ。金持ちと貧乏人は一杯の酒に関して平等だ。そうやって、人間らしさが存在し続ける。
何が人々に変装を強いるのかしら?
ゲームの規則だ。「修道服(衣服)が修道士を作る(人は見かけによる)」[「修道 服が修道士を作るのではない(人は見かけによらない)」という格言のもじり]し、われわれは自分を自分以上のものに見せかけるよう圧力をかけられている。その規範 を守らない者は、狂人と思われるおそれがある。
この映画の登場人物にとって、それは致命的な王手だ。この映画の主題でもあるけど、仮面のゲームが何かをもたらすんだと誰もが想像する。[城館に住む金持ちの青年ニコラと鉄道清掃員の貧しい青年の]二人とも、どちらかと言うと臆病で、嘘つきだ。金持ちは貧乏人を装う。現行の生活様式を味わうための方法としては目新しくはない。貧乏人は自分を排除する社会で動き回るために金持ちを装う。
どうして現実の舞台で無名の俳優を使って撮ったの?
有名な俳優を使って撮るということは私にとって、撮影所の中に建てられたアメリカ西部の村に入ることと同じなんだ。
でも、パリでもどこでもいいけど、大都市で撮る時は、「リアリズム」にはこだわらない。自分たちを取り巻く都市から、自分たちに合った、たぶんその都市のリアリティとは何の関係もない舞台を引き出すんだよ。たとえば、コンスタンティノープルに行った時、その私にとってのリアリティとは、ある通り、ある橋、ホテルの私の部屋だった。それ以外は、私の視野の外にあった。そうした要素に基づいて、私は自分にとってのコンスタンティノープルを想像することができる。私がパリで探し求めたものは、たぶん、まったくパリじゃない。たぶん、トビリシでの私の幼少期や、モスクワでの私の青年期、あるいはこのパリでの私の初期に相当するものだろうね。私は、自分の登場人物を住まわすために、ある種のパリを想像したんだ。
あなたの映画の観客はどんな人たちだと思う?
映画を撮るのは自分と似た人のためだ。知らない人に手紙を書いたりはしないよね。自分の映画が、贈り物、会ったことはなくても、当然、自分と同じ意見を持つ誰かへの贈り物になればいい。私にとって、幸福とは、誰かが私が思いついたのと同じ発想を口にすることだ。映画を見て、本を読んで、「嬉しいな、自分と同じ考えだ!」と思うよね。それは、自分が白痴じゃないということ、それにとりわけ自分が一人きりじゃないことを意味する。
でも、ある贈り物が受取人に届けられるには、残念ながら、商人たちの手から手へと手渡されなけばならない。そう思うと嫌になる。私の観察するところ、至るところで、次第に、人々の関係がますます冷たくなり、「君が私に売ることができるもの、私が君に売ることができるもの」が決定するようになってきている。たとえば、パリは五階建て、六階建ての都市だ。一階はどこも商売人が占拠しているし、その連中はどこかの階に住んでいる。そうやって、何も作らず、何も生み出さない人々に二つの階を完全に占拠させている。嘆かわしいよ!
(プロデューサー、マルティーヌ・マリニャックの採録した談話より 1999年4月)
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