イントロダクション

膨大な台詞と豊かな映像が描き出す「父と息子の軋轢と邂逅」

シナンの夢は作家になること。大学を卒業し、トロイ遺跡近くの故郷へ戻り、処女小説を出版しようと奔走するが、誰にも相手にされない。シナンの父イドリスは引退間際の教師。競馬好きな父とシナンは相容れない。気が進まぬままに教員試験を受けるシナン。父と同じ教師になって、この小さな町で平凡に生きるなんて……。父子の気持ちは交わらぬように見えた。しかし、ふたりを繋いだのは意外にも誰も読まなかったシナンの書いた小説だった――。
作家を夢見ながらも、現実を受け入れようともがくシナンと呼応するように、夢と現実を行き来しつつ物語は進む。怒涛の如く発される膨大なセリフによって語られるのは、父と息子の軋轢と邂逅。近しいからこそ、疎み、軽んじ、分かり合えることはないと断じてしまう家族。しかし、実は根底で繋がり、理解し合える。
不可解でいて絶対に失うことのない家族の絆を、温かさだけでなく、冷淡さをも持って描き出す。

カンヌ8賞の他、世界中で93の賞に輝く世界的巨匠
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督最新作

前作『雪の轍』で第67回カンヌ国際映画祭パルムドール大賞を獲得、カンヌ8賞の他、世界中で93の賞に輝く世界的巨匠監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン。知人父子の物語に魅了された監督が自身の人生も反映させて完成させたのが本作『読まれなかった小説』だ。繰り返されるバッハの旋律、作家志望のシナンが訪れる書店に飾られたカフカやカミュ、ガルシア・マルケス、ヴァージニア・ウルフの肖像、チェーホフ、ドストエフスキー、ニーチェら世界中の偉大な作家たちを感じさせる語り口……すべてが合わさり、崇高な文学のような映画作品に昇華させている。
また、映像の美しさも特筆に値する。ため息が出るほど美しく広大な景色だけでなく、室内撮影であっても、計算しつくされた完璧なフレーミングは3時間を超える大作であることを忘れさせ、「ジェイラン監督作品史上最も美しい映画」(プレミア誌)、「畏怖の念を起こさせるほどに素晴らしい!」(フィルム・コメント誌)と絶賛された。

トロイ遺跡、ガリポリの戦い、野生の梨の木、パッサカリア…
『読まれなかった小説』の背景

『読まれなかった小説』の主要な舞台は、ヨーロッパとアジアを分けるダーダネルス海峡に面したトルコ北西の都市チャナカレ。ギリシア神話のトロイ戦争で有名な「トロイの木馬」やトルコ人の誇りである「ガリポリの戦い」についての話題が劇中でも登場し、主人公シナンの心象風景を表す表現として強い印象を残す。劇中では港に面する広場に立つトロイの木馬が登場する。
原題であり、劇中に登場する小説のタイトル「野生の梨の木」は、本作の着想点であり、脚本も手掛けているアキン・アクスによる小説「野生の梨の木の孤独」からつけられた。野生梨はいびつで甘い実がならない。つまり、誰にも必要とされず、見向きもされない果物=人を表している。村人から重視されない父と息子。けれども、同じ木として生きるふたりだからこそ、通じる想いがあるのだ。
劇中で響き渡るのは、J.S.バッハ作曲、音の魔術師レオポルド・ストコフスキー編曲の「パッサカリア ハ短調 BWV582」。8小節の主題が様々な変奏を重ねながら厚みを増し、長大なフーガで締める。DNAの連鎖を思わせるその繰り返しの旋律は、巨大建築のような迫力と壮大なスケールで圧倒する。