◆監督インタビュー◆
いつどのようにして、トラブゾンと、そこのゴミ処理施設のことを知ったのでしょう。
――2005年に、私は新しい映画のアイディアを探していました。『そして、私たちは愛に帰る』の準備が始まった頃でした。その頃、マーティン・スコセッシのボブ・ディランに関する映画『ノー・ディレクション・ホーム』を見て、ボブ・ディランの祖母がトラブゾン(トルコ東北部、黒海沿岸の県)出身と知ったのです。私の父方の祖父母ももともとはトラブゾン出身でした。祖母の両親が、祖父との結婚に反対したので、駆け落ちして、小さな村チャンブルヌに落ち着いたわけです。チャンブルヌを訪ねてみたい気持ちが強く、2005年に父と一緒に行き、その美しさに心奪われました。暑く、湿気の多い夏で、すべてが緑、黒々と濃い緑でした。トルコがアジアだとすぐに分かります。まるでカンボジアかベトナムのどこかのようなのです。そこらじゅうを歩きながら、「ここが天国だ!」と言い続けていました。しかしその時村人が私に言いました。「それももう長いことはない。ここにゴミ処理場ができるからね」。予定地に案内してもらいました。打ち捨てられた銅鉱山でしたが、これが私の正義感に火をつけました。ダメだ、ここにゴミ処理場なんて作らせない。みんなで阻止しよう!村人は私がこの地に来る前からずっと反対運動をしてきたのですが、しかしこの小さな村には政治的な圧力をかける勢力がありませんでした。それで私がデモを組織し、TVクルーを連れてきました。この自然と風景を愛するがゆえに、私は『そして、私たちは愛に帰る』のラストシーンをチャンブルヌで撮影しました。その年、私たちはゴミ処理場に関するドキュメンタリーに取り掛かったのです。
当初はゴミ処理場について「のみ」扱う予定だったわけですね。しかし事態は遥かに悪いものになりました。それから起こる悲惨な状況について知っていましたか、あるいは危惧していましたか。
――倒錯的なアンビバレンツがありましたね。というのも、一方で当然そんなことは起こってほしくはないと思いつつ、映画の素材が欲しいわけですから。倫理的な問いかけが起こります。俺は何を期待してるんだ?って。そうこうしているうちに悲惨な出来事が起こり、それは最終的に私の映画になる。みんな惨事になることを予言していたことを忘れてはなりません。建設中に既に村の写真家ブンヤミン・セレクバサンは、排水パイプの幅が足りないし、汚水処理槽が小さすぎるから、この処理場は雨季に降る大量の雨を支えきれないと予言していました。彼は専門家ではありませんが、この現場を建設した専門家がとっくに見越していなければならなかったことが見えていたわけです。彼は、処理場から水が溢れ、村に汚水が流れ出すことを予言していたし、まさにその通りのことが起こった。溢れ出す汚水のイメージは、それだけで十分に見る者に何かを伝えるので、専門家など要らなかった。映像それ自身が語っているからです。そして不幸なことに、私たちはそのイメージを予期していたのでした。
撮影はどのように進んでいったのでしょうか。
――2006年に調査に行った後、2007年4月に初めて撮影に行きました。最後の部分は2012年2月に撮ったものです。始めた頃は、この作品の最終的なコンセプトがどんなものになるのか知りもしませんでした。最初は私自身が出演しようとも思っていました、例えば『クロッシング・ザ・ブブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~』のアレクサンダー・ハッケのように。しかしそうすると、主題から気を逸らしてしまうと分かりました。村人こそ真の登場人物です。チャンブルヌの市長フセイン・アリオグルのような人。彼は問題をはっきり把握していて、それを声に出すことができる人です。与党AKPの党員でありながら、彼は党の決定に背き、村人の支援に回った。そのことが私の関心を惹きました。
撮影許可を取るのに問題はなかったですか。撮影を妨害したり、止めさせようとする行為はありましたか。
――最初、私たちのチームと、処理場の責任者の間には相当の敵意がありました。私自身、トラックの運転手たちとケンカになりかけました。ある時点で、撮影許可を申請しました。それまでの映像は外側から撮ったものしかなかったからです。当初、村人の視点からのみ描くよう助言されたこともありましたが、向こう側の視点を取り入れれば、より作品が複雑になるし、トルコの現状についてより多くのことが語れるということは明らかでした。映画それ自体は判決ではない。相手側も自分の意見を述べています。
この映画は市民の勇気に関する映画でもありますね。このような権力闘争の中で、市民にはどんなチャンスがあるのでしょう。
――希望は最後まで死ぬことはありません。今日市民は、フェイスブックやツイッターを使って自分たちをはるかにうまく組織し、より効果的な反撃を組織することができる。「占拠運動」(格差の撤廃を訴えて、経済中心地などを市民が占拠する運動。2011年9月のウォール・ストリート占拠に始まり、80カ国以上に及ぶ。ツイッターなどを使った動員方法がアラブの春にも影響を与えたとされる)にそれを見ることができます。世界中で人々の意識が変わりつつあります。
撮影許可を取るのに問題はなかったですか。撮影を妨害したり、止めさせようとする行為はありましたか。
――最初、私たちのチームと、処理場の責任者の間には相当の敵意がありました。私自身、トラックの運転手たちとケンカになりかけました。ある時点で、撮影許可を申請しました。それまでの映像は外側から撮ったものしかなかったからです。当初、村人の視点からのみ描くよう助言されたこともありましたが、向こう側の視点を取り入れれば、より作品が複雑になるし、トルコの現状についてより多くのことが語れるということは明らかでした。映画それ自体は判決ではない。相手側も自分の意見を述べています。
映画が何かを変えることができると思いますか。
――もちろん。だから私は映画を作っているのです。もちろん私は語り手でもあります。物語には教訓があり、それは語りという形において、単なる情報よりずっと常識や価値観を揺るがすことが出来ます。この作品がすぐにも処理場を停止させるとは思いません。それはナイーヴすぎるでしょう。しかしそれでも私は、映画が意識を生み出し、恐らくはトルコで議論を喚起して、将来問題が違った形で対処されることを信じているのです。
村では今後何が起こるでしょう?
――2、3年後に処理場は閉鎖される予定ですが、それも確かではありません。ゴミの上に土がかぶせられることになりますが、ゴミが土の中に浸透し、それが完全に分解されるには数世紀かかるでしょう。しかし今のところ当局は、また新しい処理場の用地を探していて、それも同じ条件で建てられるでしょうから、戦いはまだまだ続くのです。この作品は少なくとも、責任者に対し国際基準に合致した焼却施設を建築するよう説得する材料となるかもしれない。というのも、彼らの単純な解決法は、友人より敵を多く作ることが、彼らにも分かり始めているからです。