MM:
自由奔放に無謀なことをしでかす若者たちに、希望の光は見えているのかしら。
OI:
若いうちは誰でも、この世は人生を最後の最後まで生ききるだけの希望に満ちていて、人生はバラ色だと思っているものだ。『月曜日に乾杯!』で私は若者を登場させた。彼らは教養もあるし性格もいいが、(どこの国でも昔からそうであるように)祖父母を除く大人たちとまったく関わらずに生きてきた若者だ。祖父母との繋がりが両親との繋がりよりも強いんだ。『月曜日に乾杯!』に出てくるおばあさんは孫息子にとって、父親や母親よりもずっと友だちに近い存在だが、それはおばあさんには両親より時間があり、一緒にいろんなことをしてくれるからだ。この図式は世界中のどこにでも昔から存在している。祖父母が介護施設に入れられ、孫が小学校に通い始めることによって、祖父母たちが孫たちから引き離されてしまう世の中であるにも関わらずだ。さらに、朝から晩まで働く両親は子供たちのそばにいることは出来ない。家に人気(ひとけ)がなく、祖母も祖父もいなければ、子供たちはテレビを見るかゲームで遊ぶしかない。おばあさんが昔話を読み聞かせることも、おじいさんが昔の遊びを教えることも、今はもうなくなってしまった。
MM:
これは、今の生活から逃げ出すという映画でもあるわね。
OI:
今の生活から逃げ出すことは出来ないという話だ。もし別の場所へ行って幸せを見つけたいと思うなら、それは間違っている。聡明で明敏なヴァンサンは、家に戻った方がいいという結論に行き着く。他に解決策はないからだ。世界中どこへ行っても同じなんだ。“塵は結局、塵に還る”だ。
MM:
家族と暮らす家というのは、死を待つための控え室のようなもの?
OI:
そうだ。船乗りという例外もいるが。船乗りに一番効くののしり文句は“お前はベッドで死ぬだろう”なんだ。彼らはベッドで死ぬよりも船と一緒に嵐の海に沈んだ方がいいと思っている人たちだから。
MM:
じゃあ、あなたは船乗りに近いと感じている?
OI:
今のところはね。だが先のことは分からない。
MM:
シークエンスはどう考えてもリアリスティックではないけれど、それと同時に作品で大きな意味を持っているわね。ヴァンサンは、幼い頃の友だちで、今は女装してバーでトイレ番をしている謎めいた人物と再会するけど、この再会はあなたにとってどんな意味があるの?
OI:
ヴァンサンはただ工場で働いているだけではなく、趣味で絵を描いている。彼には明らかに、結婚して家庭を持ったとき記憶から抹殺し否定しなければならなかった過去がある。そして大人になった今、偶然、幼い頃の友人と再会するんだ。その友人は不幸で極端な状況にあった。独りきりで地下室に暮らし、友だちといえば2匹のネズミだけ。食べていくために女装しているが、彼もまた、絵を描いている。ヴァンサンにも彼にも幼い頃の思い出があって、彼らはまさに長い間失われていた友人だ。恐らく2人は絵を描く夢を一緒に見ていたんだ。
MM:
なぜヴェニスなの?
OI:
ヴァンサンをどこか遠くの地へ行かせようとしたとき、実際に遠くの地へ行くというのはありがちだからね。不思議な、そしてあまり遠くない場所をと考えてヴェニスにした。ヴェニスは半分が現実、残りの半分はファンタジーという街だ。ロケのために、運河とゴンドラという、いかにもポストカード的ではないヴェニスを見つけた。人々が水の上で暮らし、水の上を行き来するヴェニスだ。そこにはいつも変わらず運河がある。ヴェニスという街自体が登場人物なんだ。この街を、温かくシンプルなごく普通のもので満たせば、伝統的な装飾が消え去ってここに住む人々に与えられた運命や彼らの生活がよく見えてくる。それでも惹かれずにはいられない街だ。電車から大運河沿いに降り立つと、立ち並ぶ建築物の美しさや水上を人々が行き交う光景の不思議さにめまいすら覚える。映画監督にとってヴェニスでの撮影は楽しいものだ。水面を進む船の上から撮るシーンは車から撮るシーンとはリズムがまったく違うし、録音される音も独特だ。どんな街にでも溢れかえっている車のガタガタいう騒音の代わりに、アコーディオンやギターの音色と混ざり合って、船のモーターがうなる音が聞こえてくるんだからね。
プロデューサー、マルティーヌ・マリニャックとの談話 オリジナルプレスより抄訳
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