映画「陽のあたる場所から」を通して、
<共依存>について考える
(講師)
お茶の水女子大学ジェンダー研究所
河野貴代美教授
2005年1月19日(水) 五反田KSS試写室
■共依存とは?
「まず、ロアが専門的にどういう病気の方なのかお知りになりたいと思いますが、彼女が何の病気で、何に悩んでいるかは分かりません。
ただ、ひとつだけ分かっている事は、彼女が自分を持て余している女性だと言う事です。
彼女は自分の言葉で自分を説明する事ができないのです。
そしてもう1つ分かっている事は精神科医のコーラも自分を持て余している女性なのです。
つまり、この物語は自分を持て余した2人の女性の物語なのですが、それは大事なことなのです。つまり、人間と言うのは、誰もが自分を持て余しているのです。アイスランドの男性医師は、自分の中に自分を収めていますが、あとの2人は持て余しており、その中から共依存という話が出てきています。」
■コーラが、医師としての立場を越えて1人の患者にのめりこむ姿は共依存といえるのか。
「コーラのように、患者を抱きかかえてしまい、自分でなければ、この方法でなければ患者は治らない、こうあることが正しい、と勝手に信じてしまう人はいます。ロアがどうしたいのか、最後まで分かりません。コーラは患者への愛とはなんであるかを取り違えています。愛というのはエゴイスティックなものです。従って共依存では得てして、共依存の側は自分の行為を愛であると思い込みがちです。愛の定義はしませんが、それは決して相ではありません。自分にしかわからない・できないと思いがちになるので、客観視して自分を振り返ってみて、今自分がしている事が何であり、正しいのか考えなくてはいけません。」
■共依存は女性に多いのでしょうか。
「広い意味での医療においては必ずしも女性に限りません。パターナリズムという用語があります。これはよく言えば保護者的、悪く言うと家父長的と言えます。このパターナリズムを解消するために、インフォームドコンセプトによって患者と意思疎通をするようになってきましたが、パターナリズムは父権的であると訳されるように、医療は男性的なのです。自分に任せておけ、という男性的なところがあります。
「愛しすぎる女たち」というアメリカの大ベストセラーがあり、ここでは女性に多い傾向として、この中で共依存がうまく描かれています。関係の中で、自分自身だけが「この人には自分がいなければ駄目だ」と思っていても、「お前がいなければ駄目なんだ」と相手が言うかどうかはわからないのです。DVのような場合には、相手はそのようなことを言うでしょうが、その言葉が正当性を帯びていません。
多くの場合、夫婦関係で、アルコール依存だとかDV、ギャンブルなど夫に問題がある場合、女性は駆けずり回って治そうとします。
その行為は結果として、夫にとって自分の問題ではなくなってしまうのです。
妻が夫の問題を半分背負い、あたかも自分の問題であるかのごとく関われば関わるほど、夫は自分の問題が減っていきます。そして、自分の問題として引き受けようとしません。
普通は、その内に女性が「何でこんなことしているのだろう」と気付き、お酒が増えてもほっておくようになります。アルコール依存の場合ひどいと失禁するようになり、自分でどうしようもない、なんとかしなくてはならないということに気付き自ら立ち直っていきます。しかしここまで放っておけないから、走り回ってしまうのです。ですから、問題が一向に解決しません。女性は「誰かのために」ということが生甲斐になったり、ケアすることが自分にとって楽しい事のように思えてしまうのです。だからといって妻が悪い、妻にも責任があるのかということは疑問がありますが。
共依存的だ、と言う関係性は「私がいないとこの人はだめだ」と思い、相手に必要かどうか分からないのにひたすら与えて、それなのに相手に感謝されなかったりすると腹をたてたりします。なぜ?そんなにも相手の必要も考えず、つくすのかというとそれは簡単で、イイ人だと思われたいのです。他人の評価が欲しい。評価されたいから、一生懸命、人につくすのです。その結果、自己評価が育たなくなってしまうのです。」
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