写真撮影を通じて感情を相手に残すところがとても面白く、 映画撮影でも我々俳優の気持ちが映ることを確信しました。
浅野忠信(俳優)
ひとの生の時間を奪い去る<写真>は、 なんと罪深いことだろうか。 美しい身体を借りた人形浄瑠璃。 白昼の夢は、いつ果てるともなくつづく。
新井卓(写真家/ダゲレオタイピスト)
これは「はざま」の物語だ。 光と影。愛と憎しみ。純粋と打算。彼岸と此岸。 すべての「はざま」が混ざり合うとき、一つの悲劇が生まれる。
乃南アサ(作家)
女が階段から垂直に転落すれば、幽霊になるに決まっている。 この小津と溝口の宿命的な融合を、 二一世紀のフランスを舞台に あっけらかんと描いて見せる小癪なる黒沢清。 必見!!!
蓮實重彦(映画評論家)
圧倒的だ。 芸術に取り憑かれた男は、そのために犠牲にした女にやがて取り憑かれる。 それは女の復讐なのか、それとも愛なのか。
井上荒野(作家)
永遠に自分のところに留めておきたい、という エゴから逃れられない写真家のオブセッション。 そのなかでしか見えない美しさがある。
川内倫子(写真家)
私がこの映画に興味をひかれるのは、 全てが「移動できないことによる」悲劇を暗示しているからだ。 こんな屋敷と温室にであれば、囚われてもいいのではないかと 思わないでもないけれど。
楠本まき(漫画家)
一瞬を“永遠”に切り取る 最古の撮影方法“ダゲレオタイプ”を通して交わされる、 撮影者と被写体。 まさに究極の愛の物語でした。
福島リラ(女優/モデル)
冒頭、彼の後ろ姿が屋敷に入った瞬間から、 オレはひんやりと薄暗いトンネルを歩くような 不安と緊張を抱き続けた…あの出口まで。
マギー(俳優/脚本家/演出家)
この映画を愛してる! 美しく、緻密。 ジャンル映画であり、映画の歴史への讃歌であり、 不安と緊張を抱き続けた… そしてまぎれもない黒沢清作品だ。
キャメロン・ベイリー (トロント国際映画祭アーティスティック・ディレクター)
ヨーロッパの風景の中に「能」の世界を見た。 死者と生者をここまで平等に描いたことに脱帽しました。 黒沢監督はあらゆる境界を越えてしまう。
前川知大(劇作家/演出家)
「写真」というものには、どうしようもなく怖いところがある。 時間を止め、生きているものを凍結保存する方法だからである。 黒沢監督は、この怖い「写真」を「映画」という時間芸術によって、 言わば墓場から甦らせる。 そんな「映画」が怖くないわけがない。 しかしその恐怖はじつに美しい。 これは、恐怖の美学を熟知する監督の、 「映画」による見事な「写真」論である。
森村泰昌(美術家)
1839年に発明が公表された世界最初の写真技法、ダゲレオタイプ。 あたかも魔法の鏡に画像を映し出すようなその技法が現代に甦った。 しかも等身大! そこに封じ込められたのは妙齢の美女だ。 「永遠」を夢見る写真家の狂気が、 じわじわと滲み出てくるように感じる。
飯沢耕太郎(写真評論家)
牡丹燈籠のお露と新三郎を見ている様でした。 マリーが、どんどん美しくなってゆく怖さ、 教会での謎解きが古典的で逆に新鮮でした。
林家正雀(噺家)
「写真に魂を抜かれる」というのは迷信なのだろうか。 私たちは思う以上に、 生死と愛憎の境界に生きているのかもしれない。
ブルボンヌ(女装パフォーマー/ライター)
静謐にして超常的。 油絵の国に墨の繊細をにじませた藤田、 怪談をエイリアンの眼差しで昇華させた八雲、 東と西が往きかう処、 また新しい愛の姿が立ち現われた。
エドツワキ(アーティスト)
ダゲレオタイプで写真を撮ることは脆く危うくも、魅きつけられる。 この世でもっとも美しい愛のかたち。 幻影か現実か、今やどちらでも良い。 ここには永遠の愛があるのだから。
KIKI(モデル)
すべての情景が美しく、そのことがおぞましさを増幅させていく。 人が死を愛していることはたくさんの映画が証明してきたが、 この映画は人が死しか愛せないことを証明してしまった。
藤野可織(小説家)
まるで魔法だ! 感動的で、素晴らしい演技、監督も素晴らしい! 本当に驚いた!
VANITY FAIR(伊)
この映画は黒沢清監督にとって特別な意味を持つ作品だ。 フランス映画だからではない。 結果としてこの映画が、この稀代の映画作家の、 もっとも純度の高い傑作となったからである。 黒沢映画とは、つまりこれである。
佐々木敦(批評家)
黒沢監督ならではの「場所」の異様な空気は確かにホラーだが、 自責や悲しみのあまり愛する人の残像にすがる人々の物語、とも。 亡くした人と会話し、その姿を見るのは、ごく日常の出来事だと思う。
萩原麻理(映画ライター)
寺山修司は、 「銀板写真(ダゲレオタイプ)には、死の匂いがある」と言った。 “記憶を持った鏡”ともいえる銀板写真に永遠の命を感じ、 その言葉を不思議に思ったものだ。 だが、黒沢清は、その両方を私に観せてくれた。
安藤紘平(映像作家/早稲田大学名誉教授)
いつもと違う国で、違う言葉で、芯は同じだが、味わいはまた違う。 フランスであってフランスでなく、もちろん日本でもない、黒沢清の世界。 ヒロインを写す銀板のように冷たいのに情熱的で、 このうえなくロマンティックで美しい。
冨永由紀(映画ライター)
コンスタンス・ルソーが素晴らしい! この作品で彼女を発見できたことは大きな喜びだ。 そして、常に素晴らしいタハール・ラヒムはこの作品でもやはり一級の演技を見せた。
LA WEEKLY(米)
これは「映像」という表現が 「霊魂」という幻夢を呼び寄せるか否かをめぐる 黒沢清でしかあり得ない悪魔的実験の映画である。 それは、恐怖を通過して、われわれを「彼岸」に引きずり込むほどに美しい。
樋口尚文(映画評論家/映画監督)
黒沢清の映画は、どこかフランス映画的だと感じていた。 欧州の情景と俳優が揃った本作により妄信は確信へと変わったが、 同時に幽玄・幻影の世界は不変だった。 つまり世界のどこにいても、黒沢清は黒沢清なのである。
松崎健夫(映画評論家)
死にも似た長時間の不動を相手に強いる草創期の写真術が、 愛妻や愛娘を否応なく黄泉の側へと吸い寄せる。 「愛する者」を永遠化する欲望の狂おしさと罪深さ。 無傷のままでは抜けられない、美しく幽遠な怪奇幻想譚だ。
後藤岳史(フリーライター)
パリの日常風景と優麗でいてどこかミステリアスな館── 二つの世界が独特の映像美でつながれ、 登場人物それぞれの愛の形が綴られていく。 KUROSAWA WORLDの醍醐味を、心ゆくまで味わえる一作。
L’OFFICIEL JAPAN
写真撮影を通じて感情を相手に残すところがとても面白く、
映画撮影でも我々俳優の気持ちが映ることを確信しました。
浅野忠信(俳優)
ひとの生の時間を奪い去る<写真>は、
なんと罪深いことだろうか。
美しい身体を借りた人形浄瑠璃。
白昼の夢は、いつ果てるともなくつづく。
新井卓(写真家/ダゲレオタイピスト)
これは「はざま」の物語だ。
光と影。愛と憎しみ。純粋と打算。彼岸と此岸。
すべての「はざま」が混ざり合うとき、一つの悲劇が生まれる。
乃南アサ(作家)
女が階段から垂直に転落すれば、幽霊になるに決まっている。
この小津と溝口の宿命的な融合を、
二一世紀のフランスを舞台に
あっけらかんと描いて見せる小癪なる黒沢清。
必見!!!
蓮實重彦(映画評論家)
圧倒的だ。
芸術に取り憑かれた男は、そのために犠牲にした女にやがて取り憑かれる。
それは女の復讐なのか、それとも愛なのか。
井上荒野(作家)
永遠に自分のところに留めておきたい、という
エゴから逃れられない写真家のオブセッション。
そのなかでしか見えない美しさがある。
川内倫子(写真家)
私がこの映画に興味をひかれるのは、
全てが「移動できないことによる」悲劇を暗示しているからだ。
こんな屋敷と温室にであれば、囚われてもいいのではないかと
思わないでもないけれど。
楠本まき(漫画家)
一瞬を“永遠”に切り取る
最古の撮影方法“ダゲレオタイプ”を通して交わされる、
撮影者と被写体。
まさに究極の愛の物語でした。
福島リラ(女優/モデル)
冒頭、彼の後ろ姿が屋敷に入った瞬間から、
オレはひんやりと薄暗いトンネルを歩くような
不安と緊張を抱き続けた…あの出口まで。
マギー(俳優/脚本家/演出家)
この映画を愛してる! 美しく、緻密。
ジャンル映画であり、映画の歴史への讃歌であり、
不安と緊張を抱き続けた…
そしてまぎれもない黒沢清作品だ。
キャメロン・ベイリー
(トロント国際映画祭アーティスティック・ディレクター)
ヨーロッパの風景の中に「能」の世界を見た。
死者と生者をここまで平等に描いたことに脱帽しました。
黒沢監督はあらゆる境界を越えてしまう。
前川知大(劇作家/演出家)
「写真」というものには、どうしようもなく怖いところがある。
時間を止め、生きているものを凍結保存する方法だからである。
黒沢監督は、この怖い「写真」を「映画」という時間芸術によって、
言わば墓場から甦らせる。
そんな「映画」が怖くないわけがない。
しかしその恐怖はじつに美しい。
これは、恐怖の美学を熟知する監督の、
「映画」による見事な「写真」論である。
森村泰昌(美術家)
1839年に発明が公表された世界最初の写真技法、ダゲレオタイプ。
あたかも魔法の鏡に画像を映し出すようなその技法が現代に甦った。
しかも等身大!
そこに封じ込められたのは妙齢の美女だ。
「永遠」を夢見る写真家の狂気が、
じわじわと滲み出てくるように感じる。
飯沢耕太郎(写真評論家)
牡丹燈籠のお露と新三郎を見ている様でした。
マリーが、どんどん美しくなってゆく怖さ、
教会での謎解きが古典的で逆に新鮮でした。
林家正雀(噺家)
「写真に魂を抜かれる」というのは迷信なのだろうか。
私たちは思う以上に、
生死と愛憎の境界に生きているのかもしれない。
ブルボンヌ(女装パフォーマー/ライター)
静謐にして超常的。
油絵の国に墨の繊細をにじませた藤田、
怪談をエイリアンの眼差しで昇華させた八雲、
東と西が往きかう処、
また新しい愛の姿が立ち現われた。
エドツワキ(アーティスト)
ダゲレオタイプで写真を撮ることは脆く危うくも、魅きつけられる。
この世でもっとも美しい愛のかたち。
幻影か現実か、今やどちらでも良い。
ここには永遠の愛があるのだから。
KIKI(モデル)
すべての情景が美しく、そのことがおぞましさを増幅させていく。
人が死を愛していることはたくさんの映画が証明してきたが、
この映画は人が死しか愛せないことを証明してしまった。
藤野可織(小説家)
まるで魔法だ!
感動的で、素晴らしい演技、監督も素晴らしい!
本当に驚いた!
VANITY FAIR(伊)
この映画は黒沢清監督にとって特別な意味を持つ作品だ。
フランス映画だからではない。
結果としてこの映画が、この稀代の映画作家の、
もっとも純度の高い傑作となったからである。
黒沢映画とは、つまりこれである。
佐々木敦(批評家)
黒沢監督ならではの「場所」の異様な空気は確かにホラーだが、
自責や悲しみのあまり愛する人の残像にすがる人々の物語、とも。
亡くした人と会話し、その姿を見るのは、ごく日常の出来事だと思う。
萩原麻理(映画ライター)
寺山修司は、
「銀板写真(ダゲレオタイプ)には、死の匂いがある」と言った。
“記憶を持った鏡”ともいえる銀板写真に永遠の命を感じ、
その言葉を不思議に思ったものだ。
だが、黒沢清は、その両方を私に観せてくれた。
安藤紘平(映像作家/早稲田大学名誉教授)
いつもと違う国で、違う言葉で、芯は同じだが、味わいはまた違う。
フランスであってフランスでなく、もちろん日本でもない、黒沢清の世界。
ヒロインを写す銀板のように冷たいのに情熱的で、
このうえなくロマンティックで美しい。
冨永由紀(映画ライター)
コンスタンス・ルソーが素晴らしい!
この作品で彼女を発見できたことは大きな喜びだ。
そして、常に素晴らしいタハール・ラヒムはこの作品でもやはり一級の演技を見せた。
LA WEEKLY(米)
これは「映像」という表現が
「霊魂」という幻夢を呼び寄せるか否かをめぐる
黒沢清でしかあり得ない悪魔的実験の映画である。
それは、恐怖を通過して、われわれを「彼岸」に引きずり込むほどに美しい。
樋口尚文(映画評論家/映画監督)
黒沢清の映画は、どこかフランス映画的だと感じていた。
欧州の情景と俳優が揃った本作により妄信は確信へと変わったが、
同時に幽玄・幻影の世界は不変だった。
つまり世界のどこにいても、黒沢清は黒沢清なのである。
松崎健夫(映画評論家)
死にも似た長時間の不動を相手に強いる草創期の写真術が、
愛妻や愛娘を否応なく黄泉の側へと吸い寄せる。
「愛する者」を永遠化する欲望の狂おしさと罪深さ。
無傷のままでは抜けられない、美しく幽遠な怪奇幻想譚だ。
後藤岳史(フリーライター)
パリの日常風景と優麗でいてどこかミステリアスな館──
二つの世界が独特の映像美でつながれ、
登場人物それぞれの愛の形が綴られていく。
KUROSAWA WORLDの醍醐味を、心ゆくまで味わえる一作。
L’OFFICIEL JAPAN