──シナリオはどのように出来上がったのでしょうか。
ジョージ・アーサー・ブルームはブルックリンのアトランティック大通りに住んでいて、近所に住んでいたルディって立派なやつのことを知っていたんだ。ルディが住んでいたアパートに、精神的にも肉体的にもひどい障がいを持った子どもがいて、その子の母親は薬物依存症だった。ルディは何度かその子と過ごすことがあった。ジョージはこのふたりの関係にインスパイアされて、養子縁組についてのフィクションを書いたんだ。この映画は何度かうまく行きかけた。何人もの有名な俳優がこの企画に関わった。でも、うまくいかなかった。そして、このシナリオは20年間忘れ去られたままになっていた。ある日、ジョージの息子で僕の音楽監修をやっているPJブルームが「親父がこのシナリオを書いたんだが」って僕に見せてくれるまでね。
派手なゲイの男と、彼が面倒を見るハンデを負った子どもについてのシナリオを最初に読んだとき、なぜこの物語をどうしても映画化したいと思うのか、自分自身でも良く分からなかった。でも、この物語が持っている痛みは、ゲイの痛みでも、ストレートゆえの痛みでもない。白人の痛みでも、黒人の痛みでもない。裕福な人間の痛みでもなければ、貧しい人間の痛みでもない。愛する子どもを、自分の意思に反して取り上げられたなら誰にでも感じられる普遍的な痛みなんだ。
それに、僕はこのペテン師ラッツォ(『真夜中のカーボーイ』でダスティン・ホフマンが演じた男)みたいなルディのキャラクターにとても興味を持った。僕が好きなタイプの要素がいくつもあった。僕はジョージに「あなたのシナリオをリライトしようと思うんです」と言った。彼は「どうぞご自由に」と言ってくれた。僕は1ページ目から変えて、ポールの登場シーンを増やした。オリジナルではポールは冒頭に登場するだけだったけど、僕はこれをラブ・ストーリーにしたかった。ルディもショーダンサーに変えて、その後歌手になるようにした。法廷の場面も引き延ばした。
──この映画はキャスティングが決定的に重要ですね。
アラン・カミングが真っ先に決まった。一旦要となるキャストが決まれば、それ以外の有能なキャストも手に入れられるものだ。養子縁組について調べていた時に、リッキー・マーティン(ゲイであることを公表、代理出産で生まれた双子を養子にした)の名前に出くわした。彼のマネージメント会社に連絡したんだが、2013年までスケジュールが完璧に埋まっている、という返事だった。そのマネージャーに『チョコレートドーナツ』がどんな物語か話し、リッキーに演じてほしいルディとはどんな人物かを言ったら、彼は言った、「それはアラン・カミングのことを言ってるようですね」って。アランも彼の担当だったんだ。僕は「キャバレー」での彼の演技が好きだったし、それこそルディに必要なものだった。危険で、セクシーで、スマートで、おかしな男。彼にシナリオを送り、スカイプで話をして、アランは是非やりたいと言ってくれたんだ。
──マルコ役のアイザック・レイヴァを見出すにも、同じような思いがけない発見があったのでしょうか。
全米のダウン症協会を通して、13歳かそれ以上の少年を探していると広告を出した。ティーンエージャーを演じられる、18歳以上の子がいいと思ってた。たくさんオーディションをした。大部分は素人だった。障がいの程度は軽いものから重度なものまで様々だった。そんな時、オーディションのテープでアイザックを見た。彼が話を始めた瞬間から、どこか惹きつけるものがあったんだ。
最初のオーディションはパソコン上で見たんだけど、全部を通して演じられそうな子はひとりもいなかった。ひどい言葉を話さなければならない場面もあったんだけど、ダウン症の人は概してシャイで、暴力や怒り、気を動転させるようなものはご法度なんだ。アイザックにそのセリフを言わせようとしたけれど、彼は本当に震えだした。「これはダメだな」と思ったね。でも、一旦外に出て、僕のプロデューサーでもある妻のクリスティーンが、「演じてくれる子どもから役柄を作っていくんだって言ってたじゃない。あの子の沈黙をお芝居に取り込めば」と言った。その夜朝4時までかけて、その場面を書き直した。彼を呼び戻して、書き直したシナリオを読んでみせた。彼は完璧に演じてくれたよ。最初の撮影終わりで、大きなアイザック・スマイルを彼は浮かべて、部屋中がそれで明るくなった気がしたね。
──あなたが元俳優で、俳優としてのトレーニングを受けたということは、シナリオ作家、監督としての仕事に役立っていると思いますか。
役立っていると思えるのは、俳優が演じたいと思うようなキャラクターを書いたり、展開できたりするということだね。俳優だったころ、僕は自分がどんな役を演じたいか知っていた。だから、キャラクターがうまく書けるようになっているんじゃないかな。現場ではこれは大いに役に立つ。
──なぜ舞台をブルックリンからロサンゼルスに移したのですか。ロケ地について教えてください。
実際の製作は2011年5月24日に始まった。5週間の撮影予定だった。もともとはニューヨークの設定で、プレ・プロダクションも始まっていて、ブルックリンに飛行機で行くだけになったんだが、そこで僕は自分がブルックリンについて何も知らないことに気づいたんだ。そこでロサンゼルスに舞台を移すことにした。物語は変えていないよ。
カリフォルニア州ホイッティアの青年更生施設には、学校のセットに使える教室と、バスケットのコートとして使える体育館、車の場面を撮ることができる道と精神科の施設があった。僕たちはそこに拠点を置いて撮影をした。町中を移動する必要がなく、コスト的には効率が良かった。レイシー・ストリート・スタジオでは、アパートの場面を撮った。カルバー・シティには、昔裁判所だった図書館があって、そこではふたつの法廷と、刑務所の独房内部、取調室、裁判官のオフィス、ポールのオフィスの場面を撮った。マルコが歩く場面は、小さなデジカメを使って外で盗み撮りをしたんだ。
──この映画は、ふたりのゲイが子どもを養子にしようとする時に直面する困難に鋭く光を当てていますね。
アメリカにはLGBT(レスビアン、ゲイ、バイ・セクシュアル、トランスジェンダー・トランスセクシュアル)で子どもを持っている人が百万人いる。養子を持ちたい、許されるなら親になりたいという意思を表明しているLGBTの人たちが200~300万人いる。彼らが精神的、感情的、心理的に適合した人物なら、そして安全で、安定した家庭があり、他の誰も望まないような誰かに愛情を与えることが出来るなら、ドアが閉まったベッドルームでプライヴェートに何をしようと、その人物は子どもを家庭に受け入れることが許されるべきなんだ。