ブリュノ・デュモン 記者会見
於・東京日仏学院 (1/25)

Q.『ジーザスの日々』の、タイトルの意味について

A.映画を創るにあたって、キリストの人生を描きたかったのです。芸術としての映画を創りたかったという思いがあり、それにあたって、絵画を参照しました。絵画には、キリストの人生がよく描かれていました。西洋の絵画の歴史の変化の中で、キリストの描き方にも変化がありました。ビザンチンの時代には、強いキリスト像があり、前世紀のドイツやフラマンでは貧しい、百姓としてのキリストが描かれていました。自分の課題は、二十世紀末のモダンなキリストをどう表現するか、人間としてのキリストをどう描くかにありました。(主人公の)フレディの物語とタイトルとの距離は、観客が埋めていくものになっていると思います。そしてまた、絵画でも、哲学でも、道徳でもない、「映画」を創ることが大切だったのです。それは、自分が歩んできた道をなぞっているかもしれません。自分は哲学から映画へと辿り着きました。この映画は、キリストの人生の意味の中身、神髄だけを抜き取って描いているのです。


Q.『ジーザスの日々』の舞台となった、バイユールについて

A.彼らのような若者は、自分自身、目にしていました。彼らのことを考えながら物語を書きました。しかし、映画の中で描いたのは、事実そのままという訳ではなく、それをもとにしながら創った新たなフィクションです。


Q.『ユマニテ』の、タイトルの意味について

A.このタイトルにしたのは、自分がキリスト教徒ではないからです。私はある高いもの=人間性を、人間の世界の中で捜しています。この映画は、おぞましい物語の中に現れる、人間性というものを捜しているのです。


Q.フランス映画の現状について、例えばハリウッドスタイルとも言えるような映画の台頭についてどう思いますか。またフランスでのアート映画の現状や、受け取られ方はどのようなものでしょうか。

A.フランスの現状は世界の映画状況、経済状況に依存しています。アート映画を創ることはますます難しくなっています。シネフィルの観客は減り、消費するものとして映画を捉えています。映画を撮る上で最悪なのは、金儲けのためだけに商業映画を創るということです。また、誰も見に行きたくない、と思わせてしまうものを創るのも最悪です。新しい感覚を反映させる映画作りをすべきだと思います。映画は芸術であるべきだと自分自身は思っています。インディペンデントであり、かつまた芸術として残るべきものなのです。


Q.暴力と性について。暴力は直接的には描かれず、性は赤裸々に描かれますが、それはどのような考えからなのでしょうか。

A.性は暴力とは思いません。直視できないのはおかしいと思います。それは映画を撮るに当たっての自然な要素だと考えます。映画はカタルシスの役割を持つべきです。映画は自我を解放させるものです。観る者は、そこから学び、自分を解放し、自由になると思います。映画は娯楽とは違う重要なものとしてあります。そして、性は不思議なものとしてあります。人がそれを直視できないのは、フラストレーションや、罪の意識があるのかもしれません。映画を見て、解放されることがあるのではないでしょうか。映画は、その助けとなるのではないでしょうか。日本の検閲については、私はおかしいと思いますが、それは逆に皆さんに問いたい問題です。


Q.素人の役者を使うことについて。

A.プロの俳優とは仕事をしたくないのです。私が仕事をする相手は、今まで写 されたことのない人、本物でピュアな人です。他の映画に出てしまった人とは仕事をするすべを知らないといえるかもしれません。シナリオは俳優には渡さず、彼らとのやり取りは、瞬時の直接的な関係です。直前に俳優に言ってほしいことを伝え、「演じる」のではなく役柄を体現するようにしてもらいます。それは、プロがするのとは正反対の作業です。組み立てていくのではなく、ばらばらにしていくのです。プロの俳優の場合は、シナリオの人物像になり切ることになるでしょう。私の場合は、選ばれた人たちがその人物像そのものであり、彼らが動くことで作品は出来あがるのです。2作品とも、プロを使ったらこういうものにはならなかったと思います。


Q.これからの作品では、『ユマニテ』『ジーザスの日々』の出演者は使わないことになるのでしょうか?

A.上手くいったことを繰り返すことはしないつもりです。リ・プロダクションはしないと考えています。


Q.プロの役者を使わない、と決めたところから出発しているのでしょうか。

A.使いたくない、必要ない、というのではありません。ドグマ的にこうでないとダメ、というのは最悪だと思います。自由な選択の中から、私自身が選んだ結果 がそうであったということです。事実、次の作品はプロの俳優を使っていこうと思っています。


Q.日本の検閲についての話がありましたが。

A.横浜の上映で見たとき、ショックではありました。それは検閲があるということへのショックです。だが、ぼかしは、何が消してあるのかというのが分かるだけ「まし」です。イタリアではカットがなされていました。性はこの映画にとって重要な役割を担っているので、検閲されたというのはショックです。年齢制限を設けて、それ以上の年の人々には見せるという方がいいと思うのですが。


Q.性にこだわる理由は。

A.セックスとついて離れないということではありません。それは映画の主題として入れているのであって、扇情的なものではありません。実際、より過激なものを撮ってはいたのですが、それは必要ないと判断し、入れなかったという経緯もありました。


Q.今後も「高いもの」を目指す人間がテーマとなるのでしょうか?

A.高いところを捜していく、というのは、人間の自然な姿勢ではないでしょうか。よりよいことを求めることが人生の意味だと思います。自分たちの環境は下=地にあります。それをカメラに収めることで、実際には見えない、天のものを見ることが出来るようになるでしょう。顔を撮ることで、人間の内部を観客が見ることが出来るようになり、感じ取ることが出来るようになるのだと思います。