『愛の残像』について 私が好きになったパリの黒。 写真たてのような映像と音楽のなかに黒のもつ孤独、哀しさがある。 フランソワの心の奥を映すようなジャケットの黒が印象的。 『灼熱の肌』について 生と死、芸術と現実、その狭間の危うさを描くことが、生きているという ことなのだ。
未完成な人間というテーマを永遠に問い続ける フランス映画ならではの作品。 男と女、仕事や主義を背景に息を止めて見つめ続けて しまう物語は、やがて心の深層へ穏やかな光をあてる。 それぞれにとって他によい方法などなかったのだと。 それが彼らの生きるあるいは生きない選択だった。 愛の不条理を描いた素晴らしい作品。
すべてが予想通りに推移しながら、『愛の残像』はなお見る者を惹きつけてやまない
ガレル監督の眼差しはあまりにも激しく狂おしく女と男を突き刺す! カラー版《灼熱の肌》とモノクロ版《愛の残像》の突き刺すようなコントラストを是非共に観て欲しい!
公開時にパリでも観た。ルプチャンスキー最後の力技に痺れまくる。 たぶん誰かを「ローラ・スメットのように」撮ることは可能だろう。それは私がローラ・スメットを知っているから。だが誰かが「ローラ・スメットのように」在ることというのは可能だろうか。ほっといても美ではなく性の磁力によってあらゆる視覚を惹き寄せる、ということは。ローラ・スメットの属性とは、着衣のままであらゆるパーツが性器のように感じられる、ということだろうか。愉楽もグロテスクさもコミで。 だから/なのに、誰もが目をそむけることができない。登場の瞬間からそうした属性を全開にする。見る者は、ある意味で覚悟をしなければならない。つまり、ブスに惚れる覚悟を。もちろん、性差を超えた話として。言うまでもなく、美のみで出来たものも醜さのみで出来たものも双方退屈で、 互いの緊張と拮抗こそが耳目を吸引する。ローラ・スメットはまさにその頂点を見せてくれるのだ。 身体/形式という図式は今日においても健在なのだろうか? そうではない気がする。身体とは、きわめて細分化された形式のことだと考えずにはいられない。ローラ・スメットはそうした図式を我慢できない。思えば誰よりもシャブロルこそが、そうした図式の無効さを繰り返し教えてくれたひとだった。そのひとによって最後に見出されたのがローラ・スメットだった、といっては言い過ぎだろうか。事件は形式で起きているんじゃない、身体で起きているんだ!。。。という言葉が現代にとってシャブロル的だとして、その逆の時代があり、そしていまや事件はその両方で起こさなければならない。厄介な時代だが、しかたない。こちらがデカではなく犯罪者であろうとするならば